その次の日は文京区シビックセンターというところへ行きました。26階建てのビルで、上階には展望ラウンジや食堂があり、東京の街を見渡すことができる楽しいところです。

 

わたしはこの日、区の開催する「母親学級」に参加をしました。本来は妊娠期間中のもっと早い時期に受けた方が良かったのですが、仕事でタイミングが合わず、出産前ギリギリになってしまいました。5階の会議室のようなところで、妊娠中の口腔内の健康についての話を聞いているときに、地震が起こりました。
横揺れが長く続き、保健師さん達が青ざめながら「皆さん机の下に入ってください!」と言ってくれました。妊婦というのは普段よりもおっとりとしているようで、誰もパニックになることなく「どっこらしょ」「狭いわねえ」と言い合いながら、お腹を抱えて、机の下にもぐりこみました。揺れは長く長く続き、最後に下から突き上げるような激しい揺れが何度か起こりました。その下からの動きを感じた瞬間、わたしは悟りました。「今までの生活にはもう戻れないんだな」と。

 

揺れがおさまり、机の下からもぞもぞと出ました。部屋の中は椅子や机の位置がずれているくらいで、特に変化はありませんでした。窓から見える東京の様子も、一見変わりはないようでした。わたしたちが動揺しないようテレビを付けずにいてくれたのですが、やがて保健師さんがテレビをつけると、仙台駅の天井が落ちている風景が目に入りました。東北だったんだなとその時に知りました。

 

母親学級はそこで中止となり、帰り道が同じ人同士でグループを作ってくれました。なるべく固まって歩くように言われ、エレベーターは停まっていたので、全員でそろそろと階段を降りました。

 

外に出ると、誰もが軽い興奮状態のようでした。地下鉄が停まってしまう前に帰宅しようとしたのであろうスーツ姿の男性がすごいスピードでわたしたちに突っ込んできました。「キャー」とわたしたち妊婦の集団は道のはしっこで怯えました。歩いていても古いビルからは窓ガラスの破片や外壁の欠けらがパラパラと落ちてきて、またもや妊婦は「キャー」とのそのそ逃げるのでした。
落ち着いたらまた会おうね、とその時一緒だった何人かと連絡先を交換しました。でも今のところ、会えていません。今年10歳になる子どもと一緒に元気にしているかな。

 

夫はその日たまたま自宅作業だったので、家で落ち合うことができました。プロパンガスの安全装置が働いていたのを解除さえしたら、家の中も特に変化なく、通常通り過ごすことができました。テレビをつけっぱなしにし、情報をなるべく把握しようとしました。メディアを通じて、次々にいろんなことが明らかになってきました。

 

夕方になり、夜が来ました。ベランダから下を見ると、帰宅難民の方々の歩く姿が、まるで初詣の列のように途切れることなく続いていました。おそらくコンビニもスーパーも棚は空っぽになっているだろうと思いました。お腹が空いているのではないかな、と心配になりました。
わたしたちはたまたま帰宅に困ることはなかったけれど、これが昨日だったら同じ立場だったわけです。
備えをしていたわけではないけど、お米は十分にあり、いつものように土鍋でごはんを炊いていました。おにぎりでも作って、必要な方に差し上げたいと思ったけれど、東京の知らない人々に対して、そんなことをする勇気はありませんでした。
被災地に対して何もできないだけでなく、目の前を歩いている人たちにも何もできないことに、なんとも言えない無力感を感じました。

 

この写真は3月18日に家の中で撮ったものです。震度5強。落ち着いていたつもりだったけど、1週間たってようやく、この子が転んでいたことに気づいたのでした。