この10年のことは、誰もが特別なそれぞれのストーリーを持っていることと思います。
そしてわたしも例外ではなく同じです。これまで誰に話すこともなかった、わたしのストーリーを、10年たった今、一度ちゃんとまとめておいた方がいいのかなと、ふと思いました。どこかへたどり着くわけでもなく、なにか良い結論が待っているわけでもないけれど、ただここに物語があったのだということを、書いておこうと思います。

 

2011年3月10日、ここから始めましょう。

 

この日のわたしは、自宅の最寄駅の御茶ノ水駅から電車に乗って、西荻窪にある産院まで、妊婦検診に行きました。そう、この時、東京に住んでいて、もうすぐ臨月になろうとする初産の妊婦でした。
赤ちゃんの経過は順調で、お天気も良く、病院の帰り道は西荻窪の古くからある商店街をぶらぶらとお散歩しました。いつも立ち寄る小さな八百屋さんがあって、昔ながらの店構えなのだけど、見たことがない珍しい野菜が並んでいるお店で、その日わたしは「アイスプラント」という野菜を買いました。
それから駅前の小さな手芸店に寄って「ミニスポーツ」という名の毛糸を初めて触り、迷いつつ購入は見送り、カレー屋さんに向かうことにしました。「三人灯」という素敵なカレー屋さんが西荻にはあるんです。薄暗い落ち着いたカウンター席に通してもらって、どんなカレーだったか忘れてしまったけど、おいしかったことは覚えています。店内にはキリンジの曲がかかっていて、カウンターの見えやすいところに、いまかけてくれているのであろうCDがぽつんと飾られていました。そのCDのタイトルを手帳にメモしました。その後また電車に乗って帰宅しました。お腹の赤ちゃんとおしゃべりしながら、のんびり過ごす、穏やかな一日でした。

検診の日が、あと一日遅かったら、わたしはその日、家には帰れなかっただろうと思います。

 

この日は検診だったのだけど、この頃のわたしは東京のあちこちをお散歩していました。1月末まで仕事をしていて、この年の2月と3月の前半やっとぽっかりと自由な時間ができたのです。東京に住むようになって3年ほど経っていたものの、ずっと仕事ばかりで、カフェにも古着屋さんにも雑貨屋さんにも全然行けていなかったので、何かに憑かれたように、行き残しがないよう、行きたい町へどんどん出かけていました。温かいルイボスティーを入れた水筒を持って、お腹が張ってきたらひとやすみしながら。

 

恵比寿の古着屋めぐり、神楽坂の裏通りを歩く、千駄ヶ谷の将棋会館の前を通って北参道の雑貨店めぐり、根津から上野公園、東京大学構内で野生化したネコと遊んだり、皇居の周りをお散歩して帝国ホテルのロビーで休んだり、丸の内のできたばかりのコムデギャルソンとローズベーカリーのお店を見に行ったり、吉祥寺のbase cafeで穀物コーヒーを飲んだり、思いつくことを思いつくだけやってみました。

 

おそらく、心のどこかでわかっていたのです。この暮らしが長くは続かないことを。この東京を見られるのはもう最後だということを。
わたしはそれが出産によるライフスタイルの変化だろうと思っていましたが、そうではありませんでした。3月10日の次の日に、それがはっきりすることになりました。