それから数日、皆さんもきっとそうであったように、いろいろなニュースを耳にしました。なるべく換気扇をつけないように、というアナウンスを聞き、昆布を食べるといいという話を聞きました。妊娠中だったことも影響したかもしれませんが、起こったことすべてを、その時「わたしのせいだ」と感じました。この感覚は初めてだったと思います。なんとなくですが、もしかすると、母というものは、そういう一面があるのではないかと思います。

 

使わない部屋の電気をつけっぱなしにしていたこと、遅くまで残業して灯りと暖房器具とパソコンにたくさん電気を使っていたこと、遅くまで開いているお店でお買い物するのが好きなこと、5分に1本は電車が来て移動に何も困らずにいること、それらの東京の楽しいことが、誰かの選択の上に成り立っていたなんて。東京の電力を東北で作っているなんて知らなかったのです。わたしはそこに想像が及んでいませんでした。
暗くなれば眠ればよかった。明るいうちに仕事をすればよかった。電車は時間に合わせて移動するからもっと本数を少なくしてくれてよかったんだ。それだけで原子力と隣り合って生きることを、もっとやわらかい選択にできたのかもしれない。

 

大きな悲しみと、後悔と、これまでの楽しい生活への執着が湧き上がって、感情の整理がうまくつきませんでした。わたしがストレスと緊張を感じているのに呼応するように、お腹がパンパンに張ってきました。「おでこと同じ硬さになると危険信号」と聞いていたけど、その時のお腹はおでことほとんど強度がイコールでした。そしてあんなに楽しげだった赤ちゃんの胎動がぴたりと止まり「しーん」と静まりかえってしまいました。

 

お腹の中からこう問われているような気がしました。「そっちの世界ってそんなに怖いところなの?もしかして出て行かない方がいいの?」わたしは「だいじょうぶだよー」と声をかけましたが、赤ちゃんには全て見透かされているような気がしました。

 

それでも1週間、「だいじょうぶなんだ」と自分に言い聞かせて過ごしましたが、余震が続き、計画停電が始まると聞き、通常の生活は続けられても、ここでお産をしていいのだろうか、と考えるようになりました。
産後、おそらく人生で最弱の時期、体力的に走って逃げたりできなくなったら、わたしは子どもを守ることができるんだろうか。実家から両親が手伝いにきてくれる予定もありましたが、危険かもしれない場所に親を呼び寄せていいのか悩みました。じぶんだけの希望を通せる状況ではないのだなと思い、夫と話し合った結果、苦しい決断でしたが、里帰り出産にチェンジすることに決めました。

 

 

3月19日、実家のある大阪へ移動する前日、夫と久しぶりに出かけました。ちょっとくらい放射能を吸っちゃっても、まあいいや、と。湯島天神にお参りして、谷中のレトロな町並みをお散歩し、マクロビオティックのカフェでお茶をしました。店内のあちこちで放射能の話が聞こえました。こういう話があたりまえになっちゃったんだなと感じました。

 

お散歩途中で見つけた「旅ベーグル」というお店でベーグルを購入し(旅ベーグルさんはその後、香川県に移転されたようです)、TOKYO BIKEという自転車屋さんで、夫の自転車を買いました。キミドリ色のスマートなやつです。余震が続く東京に夫を残していくことが、本当に不安でした。何かあれば、自転車で、自力で逃げることにしよう、と話し合って自転車を買ったのでした。その割には華奢でおしゃれな車体だったけど。嬉しそうに自転車を漕ぐ夫と、上野公園を歩き、最後の東京の日が終わりました。

 

翌日、実家の父が迎えにきてくれました。御茶ノ水駅で夫と別れ、東京駅から新幹線で大阪へ向かいました。新幹線のホームで、雑誌AERAを読んでいる人を数人見かけました。物議を醸した「放射能がくる」の号です。その時のわたしにとっては恐怖でしかないものでした。
本当は夫と東京にずっといたかったです。大阪へ行くと決めたのは、お腹の赤ちゃんのためだけでした。まだ産んでいないので、まだ母になりきれていなかったのです。でもここで母にならざるを得ませんでした。結果的にここから数年、東京に戻ることはありませんでした。